LOGIN「ねえ、
授業を終えた教室の片隅。湿気のせいでいつもより波打つ私の長髪を編み込みながら、親友であり、学友の
彼女の歯切れの良さは女学校一だ。裏表のなさも。私はそれを気に入っている。
が、「変」と言われては喜べない。
「好きな人がいるのにそれを秘めているなんて。そんなに好きなら、
「ちょっと、菜々ちゃん」
慌てて私が振り返ると、菜々ちゃんはちょうど編み込んだ髪にリボンを結び終えたらしく、含み笑いを隠しもせずに頭上から私を覗き込んだ。私の態度こそ気持ちを雄弁に語っていると言いたげだ。
「なぁに?」
「……好き……だ、なんて、そんな……」
「だって、そうでしょう? 美羽ったら、先生が来た翌日には決まって先生のお話ばっかり。誰が聞いても、先生が美羽の特別なお相手なんだってわかるわよ」
「それは……」
私はしどろもどろになりながらも言葉を探す。好きだと自覚しているのに、いざ他人に指摘されたら、そうではないと虚勢を張る自分が情けない。そう思うのに、私はいつだってそうしてしまうのだ。
菜々ちゃんのようになれればどれほど良いだろう。だが、先生に想いを告げることなど、婚約者のいる身で許されるとも到底思えなかった。
なにより、先生に想いを告げたところで、応えてもらえるとも思えない。
私はそれが怖い。一等怖い。
「なによぅ?」
菜々ちゃんに続きを促され、私は想像してしまった恐怖を頭の片隅へ追いやった。
急かされるままに先生への好意を別の言葉へ置き換える。
「先生は私の体のことを知っても、私の夢を否定したり嘲笑ったりせずに応援してくださっているの。学業も、職業婦人になることも、見守ってくださっていて……」
「つまり?」
「つまり……、そう、同士よ!」
「同士?」
「ええ、私と共に五年間ずっと隣で歩んでくださっている。同士みたいなものだわ」
「ふーん。同士、ねえ」
菜々ちゃんは私が病弱であることも、そのために家族や婚約者が私の体を必要以上に案じて気を遣っていることも知っている。同様に、学友たちが私をどこか特別扱いしていることにも気づいている。
そして、私がそんな気遣いをあまり望んではいないことも。
だからだろうか。彼女は私の説明にはそれ以上言及せずに、「なるほどね」と静かに頷いた。
代わりに、私が吐き出せない想いを聞いてやろうと言うように微笑を称える。甘い笑みは、菜々ちゃんが『女学校の王子』と呼ばれるに相応しいものだった。
「それじゃあ、美羽にとって先生は尊敬や憧れの対象ってこと?」
菜々ちゃんが首を傾げたはずみで、彼女の切り揃えられた短髪がさらりと揺れる。女性には珍しい髪形も凛々しい菜々ちゃんの顔立ちにはよく似合っていた。
「そうよ。先生は私にとって希望の光なの。尊敬できる大人だし、兄のようにも思っているわ」
あえて、「好き」という言葉で一つにまとめてしまうには複雑な気持ちが混ざっているのだと強調する。
――だから、想いを告げるなんてありえない。
私が視線で菜々ちゃんに釘を刺すと、彼女は「わかった」とようやく両手を上げて降参の意を示す。
「ま、美羽は
「菜々ちゃん、口が悪いわよ」
「あら、ごめんあそばせ」
菜々ちゃんは意にも介していない声音のまま、学生服の袴を持ち上げて優雅に礼をした。臙脂色の裾がふわりと宙を揺蕩う。
鐡道会社に勤めている父を持つ菜々ちゃんは、自分はあくまでも一般庶民だと言う。たしかに女学校に通う一般的な生徒に比べ、菜々ちゃんの家は決して大きくも裕福でもないのだろう。
だが、彼女の所作は美貌も相まって惚れ惚れするほど美しい。少々乱暴な言い回しを親友として聞かなかったことにしてしまえるほどに。
「ほんと、菜々ちゃんってずるい……」
むくれた私の頬をつんつんと指でつつく菜々ちゃんの指が不意に止まった。
「あ」
菜々ちゃんの視線は窓の外に向けられており、私もまた、彼女につられて外を見た。
見慣れた黒の自動車が校門の前に停車する。
「残念。今日はここまでね」
菜々ちゃんは言うと、綺麗に結ってくれた私の三つ編みを軽く撫でて鞄を手に立ち上がった。軽く手を振る彼女の瞳に少しの同情にも似た色が浮かんでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
私も菜々ちゃんを追うように帰り支度を済ませ、立ち上がる。
廊下を出て靴を履き替える。私が傘を開くのと同時、後部座席から降りて来た車の主も運転手から傘を受け取っていた。雨のせいで灰に沈んだ世界では、彼の爽やかな青の背広は特に目を引く。
急ぐ必要はないのに、彼を待たせてはいけないと、ここ数年両親から叩き込まれた教育のせいか、つい歩調が速まる。
校門へ向かうと、雨音にも負けず、よく通る彼の声が鼓膜を揺らした。
「みぃ!」
周囲にいた女学生の視線が一斉にこちらへ集まり、「
今を時めく丸井商會の一人息子。容姿端麗で文武両道。快活で頼もしい性格も相まって、女性だけの花園にいる乙女たちにはまさに理想の男性に思えるだろう。もとよりこと恋愛話には飽きなど覚えない女学生たちだ。彼の送迎は毎日のことなのに慣れる様子もなく、それどころか日増しに生温かな視線が増えているような気がする。
私は傘で周囲の視線を遮った。今日が雨で良かったと心から思う。ついでに、先ほどまでの菜々ちゃんとの会話を思い出して後ろめたくなる気持ちも隠す。影の中でなんとか笑みを作った。
「お待たせしました」
全身全霊で私を愛してくれているのだとわかって、私の胸は針で刺されたように痛んだ。
見慣れた光景にも飽きずに心を動かされるのは、先の女学生も私も同じだ。
「雨には濡れてないか?」
「ええ、大丈夫ですわ」
「よかった。さ、風邪を引かないうちに早く帰ろう」
瑞希くんの善意も私には痛い。
しかし、私はそれをおくびにも出さないように細心の注意を払って、彼の優しさを受け取る。
なにも持たない私には、そうするしかできない。
昨日、先生との外出で熱に浮かされているような気分になっていたが、どうやら気のせいではなかったらしい。 小雨の降る朝、私は熱を出した。 心臓移植を受けてから十年。退院して五年。これでも元気になったほうだが、虚弱な体質は変わらない。 無茶をしたつもりはなかったが、慣れない人ごみに疲れたのかもしれない。「これじゃ、本も読めないわね」 喉が引きつって声が掠れた。寝台の脇に置かれた袖机へ手を伸ばす。水差しから水をグラスに注いで飲むと少しばかり気が晴れた。とはいえ、倦怠感のせいか体は重く、この程度の動作ですら胸が痛むほど鼓動を速める。 窓を叩く雨音を聞く以外にできることもなく、私は目を閉じる。昨夜はあまりうまく眠れなかった。発熱で体力も奪われているらしい。呼吸が落ち着くと、簡単に睡魔が襲ってくる。 ――私は、夢を見た。 私は古い家の縁側に青年と腰かけている。庭には満開の白い梔子。私たちは、それを眺めるのが好きだった。 風に吹かれてふわふわと揺れる花弁を見て、青年が笑った気配がする。「見て。雪みたいだよ」「雪?」「白くて、綺麗で、冷たい氷の雨なんだって。いつか一緒に見てみたいね」「うん!」 風が止むと私は花を愛でることに飽きて、お茶請けのあんこ玉を頬張った。 夢中になっていると、隣に座る少年が「僕のぶんも食べていいよ」と私にお菓子を差し出してくれる。 彼の顔は逆光のせいでよく見えない。が、私はその顔をよく知っていると思う。私の頭を撫でる優しい手つきも。 梔子の香りと
百貨店の最上階にあるカフェーは落ち着いた雰囲気だった。蓄音機からピアノの曲が流れており、香ばしい豆の匂いと煙草の匂いが空気を満たしている。食器のぶつかる控えめな音と歓談の声がそこかしこから聞こえ、女学生の身で入るには少し勇気が必要だった。一人では尻込みしていたかもしれないと先生に言えば、先生はふっと目を細めた。 窓の外から街が見下ろせる席へ案内された私たちは、その眺めを存分に味わってから、食事を注文した。私が紅茶とシベリアで、先生は珈琲。 待っている間、話題を切り出したのは先生だった。「美羽さんはいつまで僕を先生と呼ぶのです?」「へ?」 想定外の質問に瞬きを繰り返すと、先生が喉をクツクツと鳴らすように笑う。私の知らない大人っぽい笑いかただった。「対等な関係をお望みだったのでは?」「あっ!」 私が「先生と生徒の立場は関係ない」と豪語したことを引き合いに出されたのだと気づくと、先生は賛同を求めるように片方だけ口端を持ち上げた。「……で、でも、先生は先生だわ」「では、僕もお嬢さまと?」「それは……」 名前で呼ばれたほうが嬉しいに決まっている。だが、それを伝えるのは告白しているようなものだ。 私は恋熱に浮かされた頭をなんとか働かせ、「先生こそ」と矛先を変えた。「先生こそ、対等に扱うと言っておきながら、まだ敬語だわ」「僕は対等な相手にも敬語ですよ。そのほうが楽なんです」「家族にも?」「ええ。美羽さんも、ご両
本屋は多くの人で賑わっていた。ラジオやテレビといった娯楽も少しずつ普及してきたけれど、まだまだ本は主流だ。特に最近は洋書が手に入るようになり、一層賑わっているように思える。 普段は穏やかな先生も、本屋の大きな陳列棚を前に珍しく喜色を目に浮かべている。どこか落ち着かない様子で店内の地図を確認した先生が店の奥を指した。「辞書はあちらのようですね」 立ち読みする人でごった返す雑誌の列を抜けていく。私も物珍しさに時折足を止めながら、先生の後を追う。先生は決して私を置いていかないよう、時々後ろを振り返っては私の姿を確かめてくれた。私が先生を見失うはずなどないし、そもそも先生はよく目立つので必要などないのだが。少なくとも、女性たちがコソコソと噂話をしているほうを辿れば、必ず先生がいる。 先生はたしか、今年で三十五になると言っていた。私が十八になる年なので、十七も離れていると常々先生が口にするのは間違いではないのだが、どうも先生は世間一般に見ても三十五には見えない。線の細さと淡く消えそうな雰囲気が少年のように見せているのか、単に先生の美貌が若々しく見せるのかはわからないが。 ――私なんかより、よっぽど先生のほうが誰かにさらわれそうだわ。 辞書が並べられた一角で私を待つ先生の隣に立つと、先生は苦笑していた。「こんなにも人が多いとは思いませんでしたね」 すでに疲労の色が見える。人の多いところは得意ではないのかもしれない。あるいは、普段は天界のような場所で過ごしているか。少し浮世離れした雰囲気があるし、隠居しているようにも思えるから、あながち間違いでもないかもしれない。先生から聞く外の話は、いつだって、天気の話か季節の話、気温や植物や医学や小説に関することが多く、家族や知人のことは少ない。先日登場した洋書の蒐集に余念がない知人の話も初めて聞いたくらいだ。「先生は、あまり外へ出ないの?
週末はすぐに訪れた。 先生があらかじめ話をしておいてくださったらしく、両親からはすんなりと外出許可が出た。 意外だったのは瑞希くんだ。てっきり反対されるかと思っていたが、彼は理由を聞くと渋々ながらもその場で了承してくれた。 家庭教師が男性であることは瑞希くんも知っているし、なんなら瑞希くんは先生のことを良くは思っていない。私を看護婦にしたくない瑞希くんにとって、医学を教える先生の存在は決して有益ではないからだ。 けれど、瑞希くんは熟考したのち「みぃのためだもんな」と言い聞かせるように承諾した。条件付きで。 当日は瑞希くんに送り迎えをさせること。それも、暗くなる前には必ず迎えに来るという。さらには、買った辞書を見せること。その日あったことを教えて欲しいとも言った。 そんなわけで、私は今、瑞希くんの車で集合場所である百貨店へ向かっている。梅雨の時期には珍しい晴天が車の窓の向こうに広がっている。 今日、先生と買い物をする百貨店は、私の父が経営し、瑞希くんの会社が卸しをしている。中心地にある瀟洒な建物で、私も両親に連れられて何度か行ったことがある。もしかしたら、そうした場所を先生が指定したことも、両親や瑞希くんが私を送り出してくれた理由の一つかもしれない。先生のこうした気遣いに救われている。「俺の仕事がなければ、喜んで付き合ったのに」 瑞希くんは拗ねた口調でこぼした。 街に近づくにつれ、人の往来や車の数が増え、外は賑わいを見せている。 休日でも仕事に邁進している瑞希くんは恨めしそうに外を歩く人々を見つめていた。「ただでさえお忙しい瑞希くんに、そんなお手間は取らせられませんわ」「別に手間じゃない。みぃのためなら
それからの授業内容はあまり覚えていない。 先生に教わって数学と理科の問題を解いていたはずだが、私はただ言われるがままに手を動かしていたようなものだった。 先生も、そんな私の体たらくぶりに気づいたのだろう。「お嬢さま」 普段、私が問題を解いている最中に声をかけることなどしない先生が、いつもよりもはっきりとした声で私を呼んだ。 ぼんやりと問題集を見つめていた私は戸惑いながらも手を止める。 先生を困らせてしまったのではないか。先生を怒らせてしまったのではないか。がっかりさせてしまった? それとも……。 先生のこととなると、途端に悲観的になってしまうのは悪い癖だ。「お嬢さま、調子が優れないようでしたら今日は中止にしましょう」 私が俯いたままでいると、先生の声音はいつもの穏やかなものになる。「お嬢さまは普段からよく勉強なさっておられますし、多少休んでも問題はありませんよ」「……平気よ」「では、他に気がかりでも? たとえば、丸井さまのこととか」 思わず先生を見つめてしまった。そんな風に踏み込んだ質問をされると思っていなかったし、そう思われているとすら想像していなかったから。 ――違う。先生のことよ。 口から本音が飛び出しそうになって、奥歯を噛みしめる。 先生は私の反応を是ととったのか、なんとも複雑な面持ちで長椅子から立ち上がった。 私の文机の隣へ立ったかと思うと、先生の手が私の背後へ回った。
「おや、今日は洋服をお召しになられているのですね。珍しい」 部屋に入るなり、先生は私の格好に眦を下げた。瑞希くんなら必ず可愛いと褒めてくれるだろうが、先生は決してその言葉を口にはしない。微笑ましげな表情を見るに、悪いとは思っていないのだろうが、所詮、子供や妹に向けるような類のものだろう。 今日はいつもより早く帰宅できたからと気合を入れてお洒落をした私とは対照的に、三日ぶりの先生は、相変わらず灰色の着物に黒い羽織という飾り気のない出で立ちだった。家庭教師に来ているだけなのだから当たり前だし、先生はそれでも様になっているから文句などないけれど。もしも願いが叶うなら、先生の洋装も見てみたい。瑞希くんのような背広もきっと似合うだろう。 先生が羽織を脱ぐと、雨の香りに混ざってほんのりと梔子の香りがした。先生はいつも、どこまでも、普段通りだ。「今日も体調は良さそうですね」 先生は私の顔色を見るなり、私の洋服姿を見た時よりも美しく笑った。それだけで、せっかく着飾ったのにと燻っていた思いなど簡単に霧散してしまう。 先生は、私の見た目よりも心身の健康を喜んでくださる人なのだ。それはなにより誠実にも思える。瑞希くんとは違う、恋愛感情のない純真な誠実さ。 先生は長椅子に体を預けることなく、鞄からいくつかの本を取り出した。今日の教材だろうか。見たことのない分厚い本が一冊混ざっている。 先日、月に一度の特別な課題を終えたばかり。今日から一か月間はまた通常の授業に戻る。それでも、飽きがこないようにと工夫を凝らしてくださっている先生の課題を見る瞬間は、いつもほんの少しの優越感と喜びに満ちていて好きだった。「あっ!」 先生が私の机に重ねていった資料や課題の数々に私は思わず声を上げる。 表紙に美しい船の絵が描かれた本だ。







